陶片が語るもの

近隣の町に住む陶芸家のOさん。


長年、手がけてらっしゃる「志野」を中心とした個展会場を訪れたのは一年ほど前でしょうか。

 

 

おもに茶陶が並んだ展示の一隅に、古い志野の「陶片」が一つ置いてありました。

 

実は、僕も志野の陶片を持っていて、それとはまた違った感じの陶片に釘付けになっていると、

 

「俺の作ったモノはほとんど見ないで、陶片ばっかり見て、けしからんヤツだ!今度ウチに遊びに来い!」

 

と、叱られました。

 

 

後日、Oさん宅を訪れて、まさに度肝を抜かれました!

 

日本、朝鮮半島、中国の古今の主だった窯業地の陶片(完器もあり)、

 

須恵器、土器、矢じりなどの石器、石斧、石の装飾品、

 

岩石の標本サンプルなどなど、A型特有の几帳面さで分類整理され、おびただしい数がそこにはありました。

 

朝から晩まで見せてもらっても、一週間では到底足りないという量でした。

 

 

Oさんは主に京都で修行され、茶陶系の仕事を始めるまでは、わりと造形的な作品で多数受賞歴があります。

 

そのころの作品もあったのですが、そちらは「サッと」済ませ(また叱られましたが)、
ド迫力の古信楽と古常滑の大壷に、圧倒されたりそっと撫でたり至福のときを過ごして参りました。

 

 

そんなOさんが先日、僕の工房を訪ねてきてくれました。

 

幾つかの唐津の陶片を携えて。

 

それより以前の会話の中での、僕の「ある疑問」がきっかけだったと思います。

 

 

近頃よく見かける、今の作家のもので、紙のように薄く、軽い「洗練された」茶碗。

 

そしてそれらが、商う人、茶に携わる人により、おおむね素晴らしいとの評価。

 

「手取りが素晴らしい!」と。

 

一方で、茶の祖・利休の指導の下で造られた楽茶碗の多くは、特に腰から底にかけてが著しく分厚い。

 

しかも、使用前に吸水性のある茶碗にたっぷり水を吸わせるのだから、だいぶズッシリしていたはず。

 

陶胎というより磁胎に近いと言う高麗系(朝鮮系)の茶碗、中国系の茶碗は、重厚な造りもさることながら、素材そのものが重いようです。

 

 

茶陶好きであるとはいえ、僕自身は茶の心得も無いので、あまり偉そうなことは言えませんが、驚くほど軽いという茶碗には違和感を感じていました。

 

単純にズッシリとしたものの方が好きというだけかもしれません。

 

以前に、そんなやり取りがあった上で、持ってきてくれた「お土産」でした。

 

唐津の陶片。

 

中央の陶片の高台付近断面
中央の陶片の高台付近断面

 

小鉢か小皿のようなものでしょうが、今の感覚から言うと恐ろしく肉厚な腰と底部分。

 

修行時代「口縁から底まで均一の厚みでバランス良く」と口酸っぱく教わりましたが、「そんなのカンケーねぇ~!」といわんばかりの重量感!

 

「モノにはそれに応じた重さがあるべき」、

 

Oさんのこの言葉もズッシリと響きました。

 

ちなみに、Oさんは京都時代に家元で直々にお茶を学んだそうです。

 

 

ひとしきり話を終えた後、Oさんがお帰りになるとのこと。

 

僕が唐津の陶片を再び新聞紙で包もうとすると

 

「その必要は無い、やるよ! よく勉強しな。」とのこと。

 

文字通り、身を削るような思いで集めた大事な陶片を!

 

 

ありがとうございました!!